子育てに正解はないことの罪

子育てに正解はないことの罪

色々な人がいて、色々な人がそれぞれの価値観を持っており、正解などないことが正解なのだと、たまにそういう結論に至るのだけれど、それって結局、どんな生き方をしても正解、逆に言えば、努力なんぞしなくても正解はそこにある、的な解釈にもなりがちである。

ある人の正解は他の誰かの正解であるとは限らないし、むしろ、ある人にとっての正解は他の人にとっては全く正解ではないこともある。

では、正解など追い求めることの方がムダであり、あるがままでいることが正解、だとしてである。

親として、子どものあるがままを受け入れている人ってどれくらいいるだろうと思う。

自分の知り合いを思い浮かべても、なんらかの形で子どもの教育に非常に関心を持ち、それなりの関与をしている人が100%と言っても、過言ではない。

それは学校の勉強だけではなく、スポーツなどの場合も同様である。

親は何らかの形で子どもに何か将来に役立つスキルをつけて欲しいと願っている、というのは、結局みな共通であり、子どもを放置して好きなようにさせればいいと思っている人の方が少なそうである。

子育てに正解はない。

でも、わたしは、子どもの立場としては、やはり親を間違っていると思いたかったし、自分たちの結婚を認めることができなかった母親は、やはりわたしに過剰な期待をし過ぎていたと言わざるを得ないし、それによって親子関係がここまで悪化したことを考えると、例え、わたしにも非があるとしても、さすがに、あれは間違いだったと思わないと浮かばれない。

親の子育てを否定したくなるのは、なぜなんだろう。

自分だけが異質扱いされることへの嫌悪かもしれない。

やはり、自分の母親には、ありのままの自分が選んだ結婚を受け入れて欲しかったという、悲しみはなかなか消えない。

そろそろ、受け入れてくれている気はするのだけど、失った10年間の貴重さは多大なるものであり、自分の子どもたちすら受け入れられなかった事実は、正解がない子育てであっても、親の子育てが間違っていたと言わないと、悲しみの矛先を向ける先がない。

でも逆に、そういう自分の母親のありのままを受け入れることが、わたしにとっては必要なのかもしれない。

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