生きる意味の続きのあれこれ。
- 2017.05.30
- 日々の徒然
つまるところ、自分はたった一度の人生をどう生きるべきかってことだと思う。たった一度の人生で、在宅翻訳を続けることの意味や意義を自分は感じることができるのかということなのかもしれない。もっとやるべきことが他にあるのなら、それをやるべきだろうし、もし今自分がやっていることに意味があるのなら、続けたらいい。
つまるところ、自分は、どうやって生きがいを感じていきていきたいのかということでもあるのかもしれない。どうやって、人に役に立って生きていくのか。どうやって自分の良さを活かしながら、人生に喜びを感じながら、生きていくのか。そういうことなんだと思う。
ふと思うことがある。自分の価値観って、学生時代と会社時代の競争社会での価値観で形成されていたような気がすると。でも、その価値観って、本当にそうなんだろうかと。正直なところを言えば、自分は青春の大半を勉強に費やしてきた感覚があって、もっと遊びたかったなという思いがあるから、この勉強してきたという自負をお金をいっぱい稼くことで報われたいという気持ちがあったと思う。
会社を辞めた時も、評価されないことに耐えられず、「もっと稼いでやる!!!」と思って辞めた。あの悔しさが原動力となって今の翻訳の仕事があるわけだから、悔しさをバネにしたという点では、「稼いでやる!!!」という意気込みもそれなりに意味があったし、それはそれでよかったと思うのだけれど、ふと、「いっぱい稼ぐ」ことが自分の人生の目的になっていやしないかと思うことがある。
もちろん今は子育てもあるので仕事もそれなりにセーブしているのだが、それでも「いつかは絶対会社にいた頃よりも稼ぐ!!」と思っているところがある。でも、ふと、そんなことどうでもいいことなんだろうなと思う時がある。
つまるところ、自分が世の中でどのような形で役に立ちたいか、そして、それには、何をしなければいけないのか、そういうことを考えて、意義深い人生にすることのほうがよっぽど重要であって、いくら稼いだかではないよねと。
そんなこと当たり前のように考えている人もいっぱいいるんだろうけど、学生時代から育ってきた競争意識は、意外と大人になっても残っていて、「頑張れば頑張っただけ、評価されたい。評価されるということは、お金を稼ぐということだ。いっぱいお金を稼いだら、自分の頑張りが報われるんだ」みたいな思考が、まだ自分の中には残っているような気がするのだ。
つまるところ、生きる意味は、少なくともお金や人からの評価ではないということなんだと(当たり前すぎ)。
それで、自分が世の中で役に立ちたいことを考えて、そのひとつは翻訳だと思う。特に、IT業界の面白さや巧妙さを文書を通して伝えられるようになりたいと思う。そして、通訳もやっぱりやってみたい。なぜなら、つまるところ、人と会って話すことが好きだから。
ただ、それには、口語の英語を瞬時に理解して説明する力が必要であり、そういう点で自分の英語力を自己評価してみるに、通訳になりたいとはよくぞ言えたものだ程度の英語力な気がしている。洋書を読んでも、海外ドラマを見ても、海外ニュースを聞いても、分からない言葉が山のようにある。
通訳者は、分からない単語があったら、その文全体を訳さないらしい。完璧に訳せないなら訳さない、そして、完璧のクオリティを提供できないような仕事は請けない、そういう世界のようだ。そんな世界には、まだまだ足を踏み入れるのは時期尚早だ。だから、自己鍛錬が必要であり、そして通訳学校に行くお金も貯めなきゃいけない。
そして、子どもたちの成長を見守り、導く必要もある。
わたしの人生は、そういう人生だ。
つれづれと、生きる意味について考える日々のあれこれを綴ってみた。
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