生きる意味とか。

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人間、時間ができるとそういうことを考えるもんなんだろうか。いや、というのも、明日までに終わらせようと思っていた翻訳案件、お客様より、多忙のため確認は6月末になりそうなので納期は6月末でいいと言われ、そう言われても早めに終わらせようと思っていたのに、人間、納期が遠くなると、気持ちも楽になって、作業は進まなくなるものである(でも、明日はさすがにちゃんとかなり進める予定)。

時間が少しできるとはじまるのは、「なんのために生きるのか」という思考。つまるところ、今の自分は、どんな生き方をしたら満足とか納得ができるのかってことなんだと思う。

進むべき方向はなんとなく見えているけれど、そこまでどれくらいのペースで、どれくらいのやる気を持って、どれくらいの活動をしていくのか。先なんて、いくら考えても分からないのは間違いないのだけど、かと言って、何も考えずに進むよりは、とりあえず考えられるだけのことは考えたほうがいいように思う。

来年は長女が小学生に上がる。次女は幼稚園の年少さんだ。子どもたちが大きくなるにつれ、自分のこともさることながら、子どもたちと今後どんな関わり方をしていきたいのかを考える必要性が大きくなってくる気がする。

手はかからなくなってくる反面、これまで以上に親のサポートが必要なときもあり、つまりは、子どもの未知の能力をどうやって引き出していけばよいのかとか。

そして、生きる意味とか。

生きる意味ねぇ…言葉にしてしまうと、なんだか、陳腐だね。

しかし最近ね、自分の母親が自分に対してかけてくれた愛情や教育について想いを馳せてみるに、感謝することが山のようにあるのよね。

今もまだ絶縁され中の母親だけど、よくもまぁ、こんなわたしを、こうやって元気に妻業、母親業、仕事をそれなりにこなせるバイタリティーを持つ人間(自分で言うか)に育ててくれたよと思うのよね。

離れているからこそ分かる、親のありがたみなのかしら。

なんだかんだ言って、このわたしがこうやって前向きに生きていけるのは、母親がわたしのことを信じて色々な能力を伸ばしてくれたからじゃないかと思うのよね。

だからなのかな、自分の子どもには、わたしは何ができるだろうって、考える歳になりました。

この話と生きる意味の関係が不明瞭ですが。なんて言うんでしょ、意外と生きる意味を感じる力って、親の影響も大きいのかもしれないと。つまり、親が自分に対してかけてくれた愛情が、生きる動力になったりもするのかもとか(その逆もあるだろうし)。なんだか、難しい話ですが。

さてと、明日のお弁当作りのためにそろそろ寝なきゃ。