皮肉な通訳者は、テクノロジーで世界を変えたい仕事人だった。

皮肉な通訳者は、テクノロジーで世界を変えたい仕事人だった。

ひとつ、わたしの人生の中で不思議なことがあって、それは、色々考えた挙句に自分は通訳者にはならないと決めて通訳学校も通うのを辞め、派遣三年の期限が終わった後はIT業界のプリセールスエンジニアあたりを目指して就活したのに、今、社内通訳をしているという現実である。

わたしの渾身の主張により、わたしの通訳が、通訳学校で厳しいトレーニングを積んだプロの通訳者とはレベルが違うのだと言うことはある程度は社内に伝わったので、わたしがやっているのは、主にテクニカルな製品固有の話になってくるところか、もしくは、そこまでクリティカルではない軽い会議通訳的なものであるが、ある意味、これは、わたしが通訳者を目指そうと考えた時に自分がやりたいレベルの通訳であったことが皮肉だなと。

そもそもわたしが通訳者を目指そうと考えた時に目指すレベルは、そこまで高いものではなかったのだ。それでも、仕事を得るためには、通訳学校に行って高い成績を収めて、仕事が舞い込んでくるのを待つ間に自分の通訳スキルを高めるしかないと思っていた。

しかしながら、通訳学校のトレーニングははるかに自分が想像するよりも厳しく、自分がやりたいと思える内容でもなく、その厳しい通訳トレーニングをやるほどの情熱もなかったので、通訳学校を通うことを自ら辞める決断をしたわけだけど、なんの因果なのか、外資系企業に努めることになった結果、通訳学校に通っていない自分が、通訳を頼まれるという、このタイミングや条件のミスマッチさよ。

思わぬところに通訳の需要は転がっているし、思わぬ形でそれに遭遇するものである。

しかし、わたしは、通訳者にはならないと決めたのは変わらないし、通訳はやるけれども、目指すところはそこではないのは、自分の中でははっきりしている。

ただ、需要があって仕事としてやらなければいけないのなら、より高いレベルの通訳をするためにレアジョブ英会話や音読やニュース記事を読むと言うような鍛錬は続けるが、通訳者になることがゴールでは、残念ながらない。

ではどこがゴールなのかと言うと、それは、うまく言葉で言い表しにくいのだけど、ビジネスや社会をドライブする側だと言ってみたい。

歳を取るごとに、自分は社会を動かす力があるんだと言う、変な願望のような希望のような自信のようなものが出てくるのは、なぜなのだろう。

若い頃は、自分に社会を動かす力などないと思ってた。でも、改めて考えてみると、誰かが何かを願い、それに向かって動くから社会は変化しているわけで、もし、みんながみんな、「自分が頑張ったって社会は変わらないさ。現状維持が一番いい」って思っていたら、本当は世界は変わらないはずなんだ。

それでも、世界は着々と間違いなく変わっていて、時代は変化してる。それはなぜなら、誰かが現実とは違う未来を想像し、それの実現に力を尽くしたからであり、それは、これからも起こり続けるだろう。未来に希望を持つ人が消えない限り。

それなら、希望を持って未来を変える側に行きたいではないか。

時代は変化する。

自分の意思を持って未来を切り拓きたい。

通訳者を否定するわけでは毛頭なく、通訳者は神業がなせる技だと思っているが、わたしがやりたいのは、人が話すことを伝えるだけじゃない。

未来を創造する仕事なのだ、と、恥ずかしげもなくブログという場で述べてみる。

何度も言うが、通訳者は素晴らしい仕事であるし、彼らは通訳という仕事の職人である。

ただ、わたしは、通訳における職人ではない、ということなのだ。

わたしはエンジニアであり、テクノロジーで世界をよりよく変えることができると信じる、ひとりの仕事人である。

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