原文回帰

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この週末もキャンプであります。そろそろ、自分たちをキャンパーと呼んでもいいんじゃないかと思えてきた今日この頃。今日は、PICA富士西湖というところでキャンプしてきます。ちょい混みの行きの道すがら、わたしは助手席でここのところ悩まされている翻訳についての進むべき方向を探っております。

それで、色々考えた結果、訳文が定まらないのは、結局のところ、そもそもの原文がきちんと読めていないからだなという気がしてきて、また原文に戻って読み直しています。原点回帰ならぬ、原文回帰です。

色々理解を深めたあとで原文を読むと、不思議なことに色々なことが原文一文一文から読み取れるようになっている気がして、「読めるぞ!読める!」という気分で読むことができている自分を発見したりします(本当に読めているのかは、神のぞ知るのですが)。

今読んでる箇所だけでも、「あ、そうか、この目次の項目は、こういう理由で説明がここにあるのか」的な、大きな視点での新たな発見があり、これは原文をもう一度全部読み直したほうがよさそうな気がしてきました。

あと、関連技術に関する理解も必要なので、その辺の仕様書ももう少しきちんと目を通してみようと思います。

そして、キャンプ場で自然に抱かれながら、この原文にシンクロしていけたら、もう少しよい訳文が浮かんでくるかもしれません。

でわ。アディオス!

追記:
ふと、この投稿を書いていて気付いたのですが、原文回帰って言うけど、あんた、そもそも見直しの時原文読まないの?って話だよね、と思いました。

ここでいう原文回帰とは、原文のみの文書全体を眺めて読み直すことを指します。訳文の見直しの際には、Trados Studioというツールを使って原文と訳文を見比べながら、原文の意図することが訳文に入っているのかを確認するのですが、いかんせん、文だけを見てると何か大きな文意がつかめていない気がしてくるという。

つまり、これが、いわゆる、Trados Studioの問題点としてよく指摘されている文意の取れていないブツ切り翻訳になってる問題なのかもしれません。わたしは、Trados Studioは今のところ好きな方なので利用していますが、やはり、文意全体を常に意識して訳す意識は、意識的に持たないといけないということなのかもしれません。

行き詰まったら、原文回帰。もしかしたら、行き詰まらなくても、原文回帰。いつでも、原文回帰。こういうことが必要なのかも。