喋ることと書くこと

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何気なくわたしの部屋に置いてあった古い母の本。昔母が読んでいた本が袋の中に入っている。

いつ、捨てられるか分からない状態でわたしの部屋に置いてあるのだが、今日、ふとその袋の一番上にある五木寛之の『深夜の自画像』という本が目に入った。

なんか気になる題名だな。と思い、目次を見てみた。その中で更に気になったのが「喋ることと書くこと」という項目だった。

読んでみたら面白かった。

ので、以下引用。ちょっと長くなりますが、読みたい人は読んでみてください☆

 喋ることと書くこと 昭和四十五年七月

 書くことは苦手だが、喋るのは嫌いではない。
 喋るように書けばいい、と考えたこともあった。声に出しながら書いてみたが、読み返してみると、どうにも読めた文章ではなかった。
 喋ること、と、書くこと、その間には、表現の形式だけではない、本質的に大きな違いがある、という気がした。そして、どちらかと言えば、私は喋る方に向いている人間のタイプではないかと思うようになった。
 まず文章を書くことが苦痛だということがある。作家や評論の中には、時たま、まれにではあるが、書くことが少しも苦痛ではないというタイプの人もいるらしい。苦痛ではないというよりも、むしろ楽しくて仕方がないといった風情なのである。こういう話を聞くたびに、自分は間違って物書きの仕事に足を踏み入れたのではないか、と絶望的になったりする。
 先日、学生たちのグループにインタビューを受けた。
(中略)
 本当はインタビューは<お互いに会って喋った>というだけにしといたほうがいいのだが、という意味のことを私はその時、学生たちに言った。
「どういう意味ですか、それは」
と、彼らはたずねた。
「つまり、喋る片端から言葉は消えて行き、その喋っている間の時間の流れだけがお互いの感性の中に印象として残る、そういう具合にぼくのお喋りを聞いて欲しかったんだが」
と、私は答えた。
 すなわち、それは文字で書かれた文章ではなく、目で読まれるべき性質のものではないという意味だったのである。私は、いわば言葉を音符のかわりに使い、或いは自分の舌と呼吸を楽器のかわりに用いて、ある即興演奏のような行為を行ったような気がしていた。私はその事を少し説明した。
「じゃあ、五木さんは論理や思想を語ったのではないわけですね」
と学生の一人が言った。「どうりで前後に矛盾した発言が多いと思った」
「それは当たり前だろう。ぼくが今ここで三時間喋ったのは、たとえば気取って言うなら、ソニー・ロリンズが彼の楽器を駆使して三時間のソロをやったのとは質はちがっても同じ性質のものなんだから。彼の場合は音符とサックスで喋る。ぼくは言葉と声で三時間のソロをやったとうけとってくれればいい。ぼくが表現したかったものは、一つの感じ方であって、論理化できないものだ。ぼくの喋ったリズムや、フレーズの即興的な発展や、音の飛躍や、冗談や、黙っていた時間や、そんなものぜんぶが一つの音楽みたいなものだと考えてくれないか。だから、そいつをテープに取って聞くのはまだいいけど、文章に移して、リライトして、雑誌に転載するとなると、これは全く意味のないものになってしまう気がする」
「そう言えばそんな気もするなあ」
 学生たちはそう言って笑った。そしてテーブルを抱えて、帰って行った。ゲラは早目に送ると彼らは約束したが、私の意見には賛成したくない様子だった。
 だが、私は本来お喋りとはそういうものだと思う。あれは音楽の一種なのである。しかもそれはクラシックのそれではなく、楽譜を持たす、あるテーマから無限にイメージをくりひろげ、転調し。コーラスするジャズの演奏のようなものだ。そしてそれは一つの表現として私には快楽的な行為なのである。一時間の約束が三時間になってしまうというのも、その証拠だ。    
 これにくらべて、文章を書く時には、できるだけ枚数を少なくしたいと思う。十枚の約束が二十枚になるなどという事は、金輪際あり得ないのである。現にこのエッセイもどきの文章にしてからが、九枚前後という編集部の厳命にもかかわらず、とてもそこまで到達することは絶望的に思えるほどである。
 書くことで苦しむ物書きは、本来どこか表現の方法を間違っているのではあるまいか、という不安が最近しきりとする。トレーニングは苦痛かもしれない。だが、いわゆる演奏家たちの言う、<のっている>状態に立ちいった時、彼らの作業は人間の到達し得る一種の至福の限界にまで上昇するらしい。
 私はどんなに<のっている>時がやってきても、そんなエクスタシーの中で文章を書いたことがない。だいいち、<のってくる>ほどの文章が疾走するという体験は、いまだ味わったことがないのである。昔の禁慾的な文筆家の中には、筆が滑りはじめると書くのを中断する人もいたということだ。そういう話を聞くたびに不安になる。喋っている時に口が滑りすぎるのは、確に気をつける必要があって、つい相手の配偶者の欠点などを辛辣に批評して不快な顔をされたり、トルストイやドストエフスキイを子供あつかいして笑われたりするのだが、文章が滑りすぎて失敗することを気づかうほどの私は<のり>はしないのだ。
 喋るのは音楽で、書くのが文章であるならば、どうやら私自身は文章家としては落第で、言語によるミュージシャンに近いのかもしれぬ。まあ、ミュージシャンというのも気負い過ぎで、大売出しのチンドン屋の行列にいるクラリネット吹きといった所だろう。

 

という文章です。はあー打つの疲れた。
でも非常に面白い文章だと思いました。
じゃ、おやすみなさい。