兵庫県尼崎市のJR福知山線「脱線事故」

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4月25日、家に帰ってきたら、この事件がテレビでやっていました。死者の人数も増えていき、居たたまれない思いになった人は多いと思います。

わたしも感情的な感想は書きました。

けれど、感情論だけではだめで、あれからもこの事件をどう考えたらいいのだろうか、と考えていました。
心の中には色々な感情が起きるのだけれど、それをどう言葉にしようか考えていました。そして、今、ほかの人のブログを読んで書こうと思い、パソコンに向かっています。

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わたしも、この事件の報道を全部見たわけではないし、状況的にも正確に把握しているわけではないので、本当は何も言える立場の人間ではないとも思います。

ただ、思ったことを少しだけ。。

一、「冥福を祈る」という感想が多く、世の中の人はそう感じているんだな・・・と思った。わたしは「今現在も救命活動が続いています。 一人でも多くの人が助かるように、祈っています。」と最後を締めくくったが、多くの人は「冥福を祈る」という言葉で締めくくっていた。わたしは、自分の言葉で精一杯表現したつもりだが、そんな表現があったのかと思った。

わたしはこの事件で知り合いを亡くしていない。だから、家族や友人などを亡くした人の気持ちなど分かるはずがない。分かるといったら、嘘だ。ただ、映像を見て、悲しい と思った。そしてまだ命がある人が助かって欲しい・・・と思ったように思う。画面を見ているときは心が痛く、悲しかった。

でも、次の瞬間には、自分の世界に戻る自分を客観的に見ていた自分もいたように思う。そういうのが、また悲しいことのように思った。

二、誰が悪いのか。そんな議論がある。わたしは「いい」「悪い」というのは、相対的なものだと思っている。というのは、絶対的な善い悪いなどあるのだろうか、ということだ。その社会にはその社会の善い悪いが存在し、その社会の基準で善い悪いを規程する。電車の時刻が日本は厳しいというのは、よく聞く話である。それを責めたところで、何にもならない。

善い悪いは相対的。

そして、複雑に混ざっている。

悪いのは運転士?厳しいJRの罰制度?

そんな議論は無意味かもしれない。どちらも悪い。
それで結局、「どちらも悪い」場合、両方が「変わる」べきだと思う。

三、運転士の心境。彼は一体何を考えていたのだろうか。何十メートルもオーバーランしたと言うじゃないか。どう考えたって、ちょっとおかしい気がする。ちょっと間違えた、ちょっとスピードを出しすぎた、と言うには無理があるように感じる。彼の心の中に何があったのだろうか。人は正常なときはキチンと業務をこなせる。でも、精神的にストレスがあったり、心が鈍るときって言うのがある。どんな精神状況がこの事件を引き起こしたのか、今となっては分からないが、とても怖い。

四、今、わたしが「怖い」と言ったのは、わたし自信がボケていることが多く、ミスが人より多い人間であることだ。それは、わたしを知っている人なら誰でも思うはずだ。わたしが例えば医者になると言ったら、100人中100人は反対するだろうし、わたしが車を運転すると言ったら、100人中50人は乗らない気がするし、あとの50人は死を覚悟して・・・というよりは、わたしを傷つけないように・・・と気を遣って何気ない顔で乗って入れるけれど、内心「怖すぎる・・・しゃべりかけちゃ絶対にいかん」と思うと思う。

少し表現が大袈裟になったかもしれないが、この事件はわたしにとって、運転手側として、他人事とは思えない部分があるということだ。キチンと生きること。それが守られないことが、理不尽な悲しみを生むということ、わたしは肝に銘じて生きなければいけないと思った。

以上、つれづれ書かせて頂きました。
非常識な感じ方があったかもしれません。
わたしも分からないのです、実際。この事件をどう考えるべきか。