イマジネーションの炎

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最近、夜は寝かしつけで寝てしまっているか、仕事をしてしまっているので、旦那さまとゆっくり仲よく話すことが少ない気がして、昨日は寝かしつけのあとで寝ずに済んだので軽く家事とかお仕事をしたあと、旦那さんと食卓でお互いに残波を飲み一平ちゃんを食べながら、少しだけ話をしました。

旦那さんの最近の仕事の話もあんまり聞いてなかったので、そういう話を聞いて、ふむふむ~外で働くっていうのはそういう大変さがあるよねぇでも人間力を発揮してる感じがするね、お疲れ様!!と思ったりしていました。

それで、どんな流れでそうなったのか忘れてしまったけれど、わたしが「世の中って、ほどほど、ほどほどがいいんだよね、ほどほど。ほどほどを好む人がなんて多いことか。でも、みんなほどほどに上手くやることをよしとするところがあるよね。ほどほど。」という話をしたら、「○○○さん(わたしの名前)からそんな言葉聞きたくない」という返答が返ってきました。

紛れもなくこれはわたしへの褒め言葉。つまりは、「熱い○○○さんが好きだ」ということだ(かなりの曲解が入っているかもしれないが)。

こうやって在宅で働いている今でも、会社時代の熱い想いを思い出したり、あの頃の出来事を懐かしく思い出すことがあります。一時期は、そういう世界に戻りたいと思ったこともあるけれど、あの頃のように全身全霊で仕事に立ち向かう余裕は、今はない。昔会社で受けていたようなストレスを、家に持ち帰る勇気も、気持ちもない。

ただ、翻訳仕事の中で、OSSの監視ツールを導入したときに、色々苦労してネットワーク機器からのトラップを受けれるようにトライアンドエラーで設定したりとか、他のSEさんのお客様のことを考えた熱い仕事の仕方に心打たれて学んだりとか、そういうことをただ懐かしく思い出すだけです。

でも、あの頃、世の中に出回っているITの仕組みをある程度理解したおかげで、今の翻訳の「真意」も掴みやすいし、誤訳もすぐ見つけることができる気がするので、あの頃の経験がまだ今に活きている実感はあります。

でも、それだけじゃ、過去の遺産で生きているだけであって、じゃこれからどうすんのよということになるんですが、もちろん、わたしは「ほどほど」になんか生きる気はありませんとも。

心の中では、メラメラと色々と燃えています。

ただね、若かったあの頃よりも、もっとスマートにメラメラと炎をオーラのように纏いたいわけです。周りをかえりみずに暴走するのではなく、うまく周りの流れに乗りながらユラユラと炎を燃やしたいわけです。

こういうのも、単なる、在宅仕事者の妄想に過ぎないんですけどね。ただね、最近思うのは、言葉を仕事にする人間には、「イマジネーション力」というのがけっこう重要だなと。そのイマジネーションが、現実的か、非現実的かの判断力は必要だとは思うんですけれど、とにかく、イマジネーション力が重要。

懐かしく思い出す過去の経験も、イマジネーションの材料にはなります。でも、さらにその先を見たいなら、「在宅から現場をイマジネーションする力」を育てること、ひいては、「文脈が分かりずらいTradosツールを使用したUI翻訳から製品全体をイマジネーションする力」みないなものが必要なんです。

百聞は一見にしかずとは言いますけれども、百聞したあとで一見した場合と、ゼロ聞の状態で一見するのでは、そのあとの出力に差が出てくるはずなんですよ。今は、その「百聞」を育てる期間なわけです。つまりは、「百聞」=「イマジネーション」なわけですね。

なんですかね、今日のこのわけわかんない文章。次女との英語サークルの後、ちょっと思ったことをつれづれと語ってみました。1歳11か月の次女との英語サークル、次女はたまにしか声がでないけれど、先生の話はけっこう聞いているし、わたしも、子どもに英語で声掛けする仕方の勉強になるしで、まずはもうちょっと続けてみようかと思っています。

さて!!!文脈が見えずらいUI翻訳で、いかに製品全体をイマジネーション力によって理解して、さらには、IT業界での技術の流行りみたいなものもそこから読み取って、次に繋げていきたいところであります!!!!でわ!!!!!