わたしが翻訳者を辞めた理由

わたしが翻訳者を辞めた理由

たまにこのブログの中の投稿を、自分で読み返すことがあるのだけど、フリーランス翻訳者の頃の自分が書いていた文章を読むと、自分はあの頃から考えると、随分離れたところにきたなぁと思う時がある。

純粋に、翻訳者の道を歩き、通訳者の道も模索していたわたしが、なぜ、その道を降りたのか。

それには色々な理由があるが、ひとつは機械翻訳やAI翻訳の勃興である。

わたしはその頃、機械翻訳のレビューの仕事を一定量請け負っていたが、その頃は機械翻訳でありAI翻訳ではなかったものの、一定の価値を、わたしは機械翻訳に感じていた。

しかし、フリーランス翻訳者の中には、機械翻訳との共存についてボロクソに言う人種が存在した。

自分の翻訳が、血と涙の努力の結晶であるからこそ、それを教師データとして汎用的に大量生産する機械翻訳とは、別格のものであることを証明するためには、対抗を攻撃しなければいけないのは致し方ないとしても、機械翻訳レビューで一定の仕事量を請け負っていた身としては、その批判は、わたしの仕事に対する批判であり、わたし自身も、仕事にそこまでの価値を感じなくなったため、そもそも、子どもが大きくなったら外に出ようと思っていたのもあるし、思い切って翻訳者の道からの脱却を図ったのである。

外に出てみると、翻訳ニーズというのは至るところにあるし、AI翻訳という新たな脅威が出てきた今も、人間が翻訳することの価値は残っているとは思うけれども、その大部分は、やはり機械に乗っ取られたと言っても、わたしは過言ではないと思う。

ハッキリ言って、AI翻訳は、相当優秀である。

ただ、間違いも至る所に散見されるため、そのままでは使えないのも確かであるが、駆け出しの翻訳者の直訳なんか比べ物にならないくらいの、こなれ感がある。

こなれてるかと思いきや、嘘八百を言い出すこともあるので、油断がならないわけだが、そのこなれ感こそ、翻訳には必要なものであり、わたしは正直こなれ感でAI翻訳に勝てる気はしない。

AI翻訳に勝てるとしたら、正確さのレビュー力くらいかなと思うけれど、今となっては、それを本業にする気もさらさらなくなってしまっている。

本当に素晴らしい翻訳者は、人の仕事をボロカスに言うことなどせず、新たな翻訳者の育成に、純粋に力を注いでおり、きっと、その方々の周りには神聖な翻訳者が集まり、美しい翻訳が紡ぎ出されるであろう。

翻訳は、つまりは、芸術領域に達しないと、職業として成り立たない領域だ。

そして、わたしはそこまでの情熱はなかった。

だから、翻訳者を辞めた。

ただ、業務の一部として翻訳がある場合は誠心誠意を込めて翻訳するし、技術翻訳になれば、その正確性やわかりやすさにはこだわりがあるので、「翻訳力」は活かせる場は沢山あることは、間違いないから、フリーランス翻訳者は経験としては、とてもよかったと思う。

さらに言うと、フリーランス翻訳者を7年やったことで、経歴書からは「英語力」「継続力」「挑戦力」あたりの雰囲気は醸し出されており、うまくその経験を語れれば、色々な職種に応用できるので、フリーランス翻訳者の経験は、わたしの中では相当の自信になっていることも、付け加えておく。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
ぽつりと、気ままに。 - にほんブログ村