遊ぶ子どもたちを眺めて気づいた、夏の陰の綺麗さよ。
今日は午後に次女とお散歩に出た。長女がお友達と遊びに行くと言うと、次女も一緒にお外に行きたくなってしまう。外はものすごく暑そうなので、気は進まなかったが、公園で遊んでいる子どもたちを見ながら、ベンチでスマホでもやろうと思ったら、一緒に公園に行ってもいい気がした。
長女が公園に行った後、少し遅れて次女と公園に行き、子どもたちが遊んでいるのを横目にスマホをしていたら、ほどなく長女とお友達たちがいなくなった。
そうなると、ちょっと次女とブランコでもしてみようかなという気になってくる。そう、わたしが公園に行きたくない理由は、知り合いがいるとなんかやりにくいからである。
つまり、次女とわたしだけなら、ブランコだって、思い切って漕げるわけだ。昔は、ブランコの手すりがグルグルと遊具に巻き付いてしまわんばかりに、ブランコを限界まで漕いでいたことを思い出しながら、少し控えめに、でも結局けっこうな高さまでブランコを漕いだ。
そうしたら、ジェットコースターに乗った時のような、お腹の中の内臓がフッと浮く感じを感じた。昔は怖いもの知らずだったからなのか、ブランコを怖いなんて思わなかったし、思いっきり漕いでいたのに、少し自分も変わったなぁと思った(36歳の自分がブランコを思いっきり漕いでいたら、逆に怖いとは思うが)。
そんなことを考えながらブランコにしばらく乗ってから、写真が撮りたくなり、隣でブランコに乗っていた次女の写真を撮った。
公園一面に広がる木と葉の陰が綺麗だなと思った。
そのあと、次女と公園で虫取りを試みたが、虫がいなかったので、近くの親水公園まで行ってみようとした時、長女がさっきとは違うお友達と公園に帰ってきた。
長女とお友達、次女とわたしの四人で、親水公園に行くことになり、子どもたちが親水公園で虫取りしたり、水遊びしたりするのを、わたしはボーーっと眺めたりした。
子どもが遊ぶのを眺めているときって、「あー、もう、あたしの時代は終わったのかもしれないなぁ」と思う。どんだけ、あたしは自分中心の世界で生きてきたのかとも思うけれど、実際、そう思う。もう、子どもの体力には勝てる気が全くしないんだ。
つまりは、これからは子どもたちが大きく羽ばたくのをサポートしていくのが、あたしの役目なのかもしれないなぁ、なんて思うわけだ。とは言え、まだまだ働き盛りでもあるはずで、母親だけの役割に満足できる性格ではないと自分でもわかっているから、子どもをサポートしながらも、自分の生きる道を探し続けなければいけないとも思う。
マスクをして、キャップ帽子をして、日傘までさして、子どもたちを眺めながら佇み、それから、子どもたちが服がびしょ濡れになったところで、家に帰ることにした。
帰り道も、なぜか木と葉の陰が綺麗で、また写真を撮った。
そんな、夏の終わりのある日。
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