客観的であることの重要性と寂しさ

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もう重くてもいいやと思った。このブログを続ける限り、わたしは自分の好きなことを書く。そうでなきゃ、やっぱりこのブログは意味がない。重いことを考えたなら、考えたことを書きたかったなら、書く。それだけでよろしい。人に暗く思われたくないとか、どう思われるだろうとかそんなことはここではどうでもいい。どうこう思われたくない人には、見せません。理解してもらえないと思うなら、ここは教えません。うん、それでよし。そして、いつか、ここに意味がないと感じたときはやめます。うん、それでよし。

さて、自己完結したところで、今日のお題。さて、『客観的であることの重要性と寂しさ』とは。まずは客観的であることの重要さから。人間というものは、まず何も考えなければ、自分の感情に溺れる。自分の考えに溺れる。そういうのを主観的というのだと、わたしは勝手に今思っている。そして、そうなら、客観的というのは、自分の感情や考えに溺れないこと。さて、それがなぜ重要なのか。

まずは、感情というのは、いいものばかりではないということ、それが重要だ。嬉しい。楽しい。幸せだ。そういう感情を感じるときっていうのは、人間はすごくいい気持ちになっている。しかし、人間の感情と言うのはいい感情と同じくらい悪い感情を持ち合わせていると思う。それは、悪い感情があるからこそ、いい感情があるという、ごく自然な流れの中にある。

主観的になっているとき、いい感情にでも悪い感情にでも、溺れているとき、人は自分のことが客観的に見れなくなる。幸せな気持ちのときは、まぁ、それでよいでしょう。でも、不幸せな感情のとき、やっぱり、その状況から抜け出したいと思う。そして、抜け出すには、客観的であることが必要だと。そう、客観的にならなければ、悪い感情から抜け出すことは出来ない。だから、客観的であることは重要。

けれど、客観的になるということは、幸せな感情に適用してしまうと、寂しい考え方だと思う。幸せな気持ちなのに、それを客観的に見てしまう自分がいるのだから。でも、一度客観的な見方を覚えてしまうと、悲しい感情を客観的に見れるのはよいけれど、幸せな気持ちも客観的に見るようになる。わたしは、そういうのが寂しいことだなぁと思うのだ。

だから、きっともっと重要なのは、客観的になるべきところと、主観的なままでよいところを、キチンと見分けて頭のスイッチを切り替えることが重要なのかなと思う。幸せなときは客観的にならずに、幸せな気持ちに溺れる。けれど、悲しいときは、客観的になって自分を見てみる。

そういうことが大切なんじゃないかと、今日考えた。