人の悩みについての雑感
こんばんは。旦那さまの実家の京都にきています。いつもは、実家の周りをウロウロ歩くくらいで、あまり京都らしいところに行く間もなく帰ってくることが多いのですが、今回は旦那さまがなんとかお休みをとってくれたので、一週間ほどの長めの滞在です。そんなわけで、今日は前から行ってみたかった結婚式場の敷地内にあるレストランでランチをしたり、バスに乗って京都市内を見てみたり、ふらふら歩いてみたり、甘味を食べたりしました。わたしたち親は京都を満喫したわけですが、今日の夜は娘が夜泣きを致しましてなかなか寝てくれませんでした。わたしは、きっと今日は娘は一日つまらなくて、夜寝る前にそれに気づいて、自分は疲れてないし眠くないけど寝なきゃ…でも寝れない(T . T)と思って泣いていたのではないかと想像しております。絵本を読んであげたら、声を出して笑顔で喜んでいたし。明日は、もっといっぱい遊んであげよう!
さて、京都に行く前の話になりますが、先日、高校でお世話になった担任の先生がお亡くなりになりました。享年56歳の若さでした。数年前にとある活動のメーリングリストで癌になったことを知ったにも関わらず、お見舞いに行くこともできなかったことが悔やまれ、せめてもの気持ちでお通夜に参加いたしました。先生との最後のお別れを告げにです。お通夜は、わたしが幼稚園くらいのときの、実の母親の父(わたしからするとおじいちゃん)のとき以来でした。お世話になったときの先生の様子や言葉を思い浮かべ、本当のことを言えば、お亡くなりになったことがお通夜に行っても信じられないという気持ちでした。先生のご冥福をお祈りするとともに、人の命とは…ということを考えさせられました。
娘の命がわたしに宿ったとき、目に見えないほど小さな命の萌芽に、なんて命とは儚いものなのだろうと思ったのですが、それと同じように、人の死についても、なんて人の命は儚いものなのかとわたしは思いました。儚い命だからこそ、命を大切にして、この命が感じるもの全てに感謝して生きなければならないな…なんて、漠然とですが、正直、毎日のように考えて生きています。
なぜこの話をしたかと言えば、子どもが産まれた今も、わたしの娘はわたしの実の母親に会えていません。わたしの母親は今わたしたちに会える状況ではないのです。次にいつ会えるのかも分からないのですが、せめて命のあるときに会いたいと願っているという話をしたかったからです。人の命は儚い。命あるうちに、会いたい人には会っておかなかればならないと、思ったのです。
でも、わたしは今、母親に会えない。どうしたらいいのか。
一番辛いのは、母親自身だと思うのです。しかし、本当に人間が辛いとき、それは他人の力でどうにかなるものでしょうか?もちろん、他人の言葉で辛い気持ちが和らいだり、悩みが解決したりすることはあると思います。ただ、他人の気持ちはあくまで他人の気持ちでしかありません。人の心の痛みなど、本人にしか分からないのです。そして、それを乗り越えるのも本人しかできない。他の人は手を差し伸べることはできても、結局、本人が乗り越える気持ちがなければ、乗り越えられないのです。
けれど、やはり実の母親に会えないとうのは、多かれ少なかれ原因が自分にあるかと思うと辛いものです。本人ではなくても、最近は占いにまで行ってしまったくらい(占いは、ハマるのではなく、アドバイスを求める程度なら、別にいいと思います)。でも、わたしは所詮本人ではありません。それを考えるときは辛くても、他のことがあれば忘れられます。ではわたしにできることは何もないのか、いやそうではありません。祈るのです、心の底から祈るのです。どうか、よりよい状況になりますように、と祈るのです。宗教じみているかもしれませんが、楽しいこと明るいことだけではないのが、人生。祈ることも必要なときがあるのだと思います。
そんなことを、ここのところ考えたりしています。
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